9月18日(木)


行程表

9/18(木) 快晴
  6:25   ブリーフィングあと出発。ココダ方面に雲海が見える。
  7:30   旧イスラバ村、1本、広大で整備された記念公園。豪州側の大きな記念碑あり。ココダ方面の展望絶佳。雲海も見える。お花畑に囲まれた、戦没豪兵のモニュメント側にてイスラバ地区戦没者慰霊祭(斎主、中山)。
  9:00   デッパ。
  10:05   2本、イスラバ新村。村にある日本軍機の羽を見せてもらう。村から離れた山中に残骸があるとのこと。形を聞くに96陸攻と思われる。日差しきつく暑し。
  10:15   デッパ。どんどんくだってゆく。
  11:25   3本。水場。道の左側に清涼な水が流れ出している。冷たく美味い。水を補給(生飲した)。粉ジュースを作ったところ大変美味い。
  11:34   デッパ。
  12:05   4本 昼食。
  12:50   デッパ。
  13:30   5本、ロープツリーのある林にて。暑さで一同は聊かぐったり気味。
  13:40   デッパ。ぐんぐん下る。
  14:20   ホイ村に入る。
  14:25   6本。ホイ村外れの小川にて。水は綺麗。暑いので服ごと川に飛び込みクールダウン。蘇生の思い。
  14:40  

デッパ、以後、林道歩きとなり、20分毎に小休止をしながら歩く。暑くて長い道中。

  16:05  

ココダ着。日本軍慰霊碑の前にて戦没者慰霊祭(斎主、須原)。トラックに乗り、ポポンデッタへ。

  20:00頃   ホテル着。

行動記録


イスラバの豪軍記念碑
満天の星と天の川がひろがる中、起床。今日は長丁場となるため、早目の出発とる。6:25、最後のブリーフィングを終えて出発。ココダ方面に雲海が見え、非常に美しい。昨日に続き、山腹の巻き道をぽこぽこ歩いていくと、旧イスラバ村に着く。旧村といっても、人は住んでいる。ここは昭和17年8月26日〜31日にかけて、日・豪両軍が四つに組んで戦ったところであるところから、豪州側の記念公園となっており、大きな記念碑が建てられ、その周囲は広大な芝生の広場となっている。ここもココダ方面の展望絶佳。雲海も見える。また、珍しいことに、きちんとした便所まである。

記念碑から一寸下ったところにある、美しいお花畑に囲まれた戦没豪兵のモニュメントのそばで、イスラバ地区戦没者慰霊祭を行なう。斎主は中山が担当し、モニュメントに書いてある豪兵の氏名も織り込み、この地域で亡くなられた御英霊に祭詞を奏上し、併せてパプアと豪兵の魂の安らかならんことをお祈り申し上げる。祭典終了後、村人が冷えたコーラを売りにきた。なんとも美味い!


イスラバにおける慰霊祭


慰霊祭後の記念写真

旧村からなおもゆるやかに下ってゆくとイスラバ新村に出る。村の規模としてはナオロと同格といったところか。ここで村の老人に日本軍機のプロペラを見せてもらう。なんでも村から離れた山中に残骸があるとのこと。形を聞くに96陸攻と思われる。ここから道は樹林の中をなおも下る。相変わらずの巻き道であり、いささか飽きるものの、山腹を行くためか、何箇所か沢があるのが助かる。とくにイスラバ新村から1時間下ったところにある水場は素晴らしい。道の左側に清涼な水が流れ出している。木陰もあり、休むにはよいところである。ここで粉ジュースを作ったところ大変美味かった。


イスラバ新村


日本軍機のプロペラ(イスラバ新村にて)


ロープツリーからロープをとる
更に、山腹の巻き道を延々と辿ってゆく。道は楽なのだが、高度が下がるに従って、気温があがり、こころなしか湿気も増すように思われる。ともかく、休憩時に木陰に入るしか打つ手がない。13:30、右手にロープツリーが生えた地点で休憩。暑さで一同ぐったり気味である。ここでシノイ氏がロープツリーの作り方を見せてくれた。この先から道は漸く尾根上をゆくようになる。さらに進むと見通しの利く、小ピーク状になった尾根の上端部に到着する。周囲は廃園らしく、草の丈が低いため暑いものの、広大なココダ高原を望む事が出来る。この辺りが日本軍の記録にあるデネギであろう。道はここからやや急勾配となり、足にまかせて下って行けば、ホイ村に入る。ホイ村外れの小川で小休止。綺麗な小川があったので、矢も盾も堪らず、服ごと飛び込んだ。全く蘇生の思い!





ココダ高原は見えるのになかなか着かない


ホイ村への最後の下り

ホイ村からは林道歩きとなる。最初は山すそをへつるようなルートで、木も少なく暑いものの、じきに樹林帯の道となる。とはいっても暑いのには変わりない。村をこし、さらに休憩と歩きを繰り返すうちにフェンスに囲まれた建物が出現し始めればココダは近い。ココダの庁舎?のテーブルに、一人一人が手をドンと打ち付ける。ココダ・トレイル踏破の喜びの音えある。オーストラリア人、ボーイ関係なく、全ての人々と抱き合い、握手しあい、叩き合って喜びをともにする。あまりに勢い込んで握手したので、突き指してしまったほどである。


ココダの日本側慰霊碑前にて
最後のおまつり
ここで最後の慰霊祭を行なった。庁舎の裏には日本・パプアニューギニア・豪州などの慰霊碑が建っている。本来なら全てを拝まねばならないのだが、ここではフランク社長の助言に従い、日本側慰霊碑の前で祭典を行なった。ボーイ3人が準備を手伝ってくれる。20人位の村人や子供達が、須原の作法をものめずらしそうに、しかし静粛に見守っていた。慰霊碑脇にある山砲は、144聯隊山砲3中隊のものである。中隊長の高木義文中尉(当時24歳)は、後退中、山砲放棄の命令を受け、この砲を分解して地中に埋めてから、拳銃で自決し、陸軍砲兵の心掛けである「砲側墓場」の理念を体現した。現在では信じられない、そして納得できないことかもしれないが、あのころは、彼らの時代であったのである。砲は昭和44年、高知県東部ニューギニア遺骨収集団の手により発掘された。

慰霊祭終了後、迎えのトラック(荷台にベンチがついたもの)に荷物を満載し、一同乗車。くれなずむココダの街を出発した。車が出ると、クーラーボックスに山と積まれたSPビールとジュースで乾杯!これほど美味いビールは久し振りである。がたがた道で大揺れにゆれながらの宴会となる。道を歩く住民が気軽に挨拶を送ってくれるのが嬉しい。が、みな疲れているからであろう。クムシ河を渡るころには寝入ってしまう。沿道ところどころにある村々からは、焚き火の明かりがゆらめいていて幻想的であった。

20:00頃ホテル着。ぶったおれるように眠った。













前のページ      次のページ


栃木県護国神社